エッセイの通信指導を受けているM先生から作品の講評が送られてきた。
『近頃のあなたのエッセイがサクサクと水が澄んで流れて行くように感じます。これは気になります。突き詰めて書ける内容なのに車窓の外を行く景色みたいに走り去ります。コロナで閉じこもっていても、頭の中は四方八方を駆けまわって下さい。私はコロナで閉塞感を持ったことはありません。文章の功徳というものです』
うーん、納得。やっぱり私の心は委縮しているのだ。“考えても仕方ない”という似非の悟った心境になって自分が崩れるのを守っているのだ。
私達は団塊世代で中学校では、一組五十五名で十組あった。復員してきた父親、母親は平和の日本に安堵し私達を産んだ。経済成長優先で公害が各地で発生。栄養状態も悪く、着色食品で私達の口の周りは赤や青に染まった。労働の担い手として金の卵と囃され集団就職列車に乗った。私達は時代の流れの中を一生懸命生きてきた。その私達が、後期高齢者になって病で倒れ亡くなる仲間が多くなった。入院してもコロナ感染予防で会えない。もう一生会えないかもしれない。私は励ましの手紙を書くだけだ。この脱落感、寂寥感がエッセイに反映しているのだ。誰でも死亡率百%なんだからと嘯(うそぶ)かず、精神を立て直さねば。