一枚の萩焼の皿がある。友人が焼いたものだ。直径15センチあまりの楕円のもので安定した重さがある。焼き魚をのせても、コロッケを置いても、野菜炒めもきれいに収まる。使い勝手が良くて頻繁に食卓に登場する。
もう一枚欲しいと思うが(友人に言えばすぐにくれると思う)我慢している。何故かと言えば、他のお皿の出番がなくなるからだ。
今でもこの萩焼の皿を偏愛しているのだから、もう一枚増えると大変なことになる。私の食事には、二枚で事足りる。だから、他の磁器の皿やガラスの食器を今以上に使わなくなる。彼らは嫉妬し拗ねるだろう。生まれてきた(作られた)からには、平等に愛される権利がある。使われなければ彼らの皿たる存在が失われる。彼らは飾り物ではない。食物が盛られ、饗せられる食器という使命がある。料理と一体となりその美味しさを引き出し、美まで添えるという仕事がある。皿には生きがいがいる。希望がなければ食器棚に並んでいる意味がない。悲しい失意の人生になる。活躍する場がなければならない。
萩焼の皿と他の皿を平等に愛するには気遣いがいる。一枚の塩鮭を包丁で二つに切り分け、萩焼の皿と磁器の皿に盛りつける。うん、これでいい。皿も頷く。美味しさは倍増する。