遠くには火の山の尖峰が大空を見上げ、周囲に広がる農地には、陽光が惜しみなく降り注ぐ。集落の北、西天田墓地に、藤村孝益(ふじむらこうえき)と妻うめ(むめ)は眠る。ふたりは、医師であり、蘭学者・兵学者・教育者であった大村益次郎の両親である。
孝益は、吉敷郡本郷天田(あまだ)村(現・山口市秋穂西)の藤村家から鋳銭司村(現・山口市鋳銭司)の村田家に養子に入るが、実家に後継ぎがおらず、ひとりで両家の世話をしなければならなくなったため、村田家をたたみ、益次郎が3歳の頃、一家で天田村へと転居。医業のかたわら近所の子弟を集め塾を開いた。
この墓は、その門人たちによって明治初期に建てられたものである。
防長史談会山口支部長 松前了嗣