『猫の耳というものはまことに可笑しなものである。薄べったくて、冷たくて、竹の子の皮のように、表には絨毛(じゅうもう)が生えていて、裏はピカピカしている。硬(かた)いような、柔らかいような、なんともいえない一種特別の物質である。私は子供のときから、猫の耳というと一度「切符切り」でパチンとやって見たくて堪(たま)らなかった』(梶井基次郎・愛撫)
三年前、我が家の庭石の上で毎日昼寝している茶色の猫がいた。ある日、「可愛いね」と声をかけた。竹輪をやった。最初に猫に竹輪を与える前に左耳がカットしてある桜猫であることは知っていた。桜猫とは“野良猫を保護し不妊去勢手術をし耳の先端を桜の花びらのようにカットしてある猫。地域の中で人と共に暮らしている猫”。私は高齢なので猫を責任もって飼うことはもうできない。が、桜猫を愛おしむことはできる。
猫に餌をやって三年になるが、触れない。二メートル以上近づけない。鳴かない。家猫のような親しさも絶対の信頼も私との間にはない。いつか猫は地域の中でひっそりと死んでいくだろう、私もいなくなる。猫と私、一瞬見つめあって別れていく。
『とうとうその耳を噛んでしまったのである』。梶井基次郎は猫の耳を噛んだ。私の二メートル横で猫の耳が風に揺れる。噛むことはできない。