『私を感傷的にするのは唯無邪気な子供だけである』(「侏儒の言葉」芥川龍之介)この言葉を見つけた時に、ああ、そうだ、と頷いた。それから、お茶を一杯飲んで、子供の瑞々しい壊れそうな命の美しさは私をも感傷的にさせるが、もう一つ私には私を感傷的にする言葉がある、とつぶやく。
老婆・老女・老婦・老嬢・姥桜・大年増等の言葉に接するとうっすらと涙が滲む。私は生まれた時、女であったから、それからずっと長年続けて来た女性の日々。だから自分の女の一生、他の女性の一生に思い入れがある。女性という性は身体を通してわかる。喜びも悲しみも抑圧も。
今、私は前述した老婆、老女等になっている。一緒に生きてきたわが同性、我が同胞も老いてきた。女性には様々な一生はあるが、ここにきてその後ろ姿は同じである。同じ時代を共有してきた者が見せる後ろ姿。女性だけが知らされた世間はある。幸せであろうともなかろうとも、その後ろ姿は私を感傷的にする。
年老いてくると外圧で背がうっすら女の形に湾曲している。緯度も経度も違っていても同じである。「ねえ、あなたもそうでしょ」。
『私を感傷的にするのは無邪気な子供と全てを受け入れた年老いた女性である』