長門峡に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。
われは料亭にありぬ。
酒酌(く)みてありぬ。
われのほか別に、
客とてもなかりけり。
水は、恰(あたか)も魂あるものの如く、
流れ流れてありにけり。
やがても密柑(みかん)の如き夕陽、
欄干にこぼれたり。
あゝ! ―そのやうな時もありき、
寒い寒い 日なりき。
【ひとことコラム】中也がよく訪れた長門峡を舞台としたこの詩は、前月に亡くなった文也を追悼した「夏の夜の博覧会はかなしからずや」に続けて書かれ、その深い哀惜の思いが流れ込んでいます。「密柑」は当時あった表記。孤独な境遇の中にわずかに差し込んだ光の暖かみを感じさせます。
中原中也記念館館長 中原 豊